NOV'S BLOG

LGBTやSOGI(性的指向・性自認)に関する政治動向・理論や活動などについて、主に綴っているブログです。

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民主主義とは。そして、これからの日本のLGBTムーブメントについて。

チャーチル英元首相が「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」と言う通り、民主主義はむしろ“less worse”(=より最悪ではない)だ。でも、その政治形態を尊重しようということに、世界は一応なっている。

翻って、米大統領選。普段は「民主主義の尊重」を声高に謳いながら、自分が好ましいと思わない「民主主義による選択や判断」を小馬鹿にする、その傲慢さが、まさに嫌われているということではないか?「自分達が、最も理性的で合理的な判断を下せる」と思ってはいないか?

8年前、大統領選当選を受けたオバマ氏は、「老いも若きも、金持ちも貧乏人も。民主党員も共和党員も、黒人も白人も、ヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、ゲイもストレートも、障害者も障害のない人たちも」と、アメリカの統合を訴えた。しかし、今回の大統領選で浮かび上がったのは、8年前にもまさる亀裂。

この亀裂はヨーロッパ各国でも起こっている。そして、恐らく日本もこの先無縁では居られないだろう。「分裂した社会同士、別々に存在し続けていく」「それでもなお、対話と統合を目指していく」。アメリカの判断を目の当たりにした今、どちらの選択肢が良いのか、恐らくみんなが迷っている。

なお、オバマ政権からトランプ政権への方針転換に伴い、日本のLGBTムーブメントに悪い影響が出るという懸念がTwitterなどで散見される。しかし、敢えて言うと、アメリカの方針転換「だけ」で潰れるようなLGBTムーブメントならば、それは日本社会に根を張っていないことを自ら露呈するものではないか?

もちろん、使えるものは外圧でも使えば良いと思う。でも、この国に住む人達を説得して、この国の社会を変え、この国の制度を変える事こそが、最終目標のはず。そうだとしたら、「長期戦への覚悟」「現実を見据えた透徹した(複数の)戦略」「less worseを選択する胆力」が必要なのではないだろうか。

1999年、LGBTがブームになる遥か昔、札幌で活動を始めた時から、私はこのスタンスで歩いてきた。連れ合い氏と私のユニットTMGFもこのスタンス。恐らく死ぬまで、このスタンスだけはブレないと思う(と言いつつ、明日死んでしまうかもしれないけど)。
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「誰かの願いが叶うころ」と「僕たちは戦わない」

政治とは詰まる所、「私益と私益の調整」だ。数多くの私益が、もし調整されないまま放置されれば、

「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ みんなの願いは同時には叶わない」
(宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」、2004年)

という事態になるだろう。

「みんなの願い」が100パーセントの状態で叶うことは、まず不可能だ。

それならば、各自がそれぞれ折り合いをつけつつ(=自分の願いが100パーセントは叶わないことを受け入れつつ)、「みんな」が合意できる地点を作り上げるしか無い。

そうして作り上げられるものこそが「公共性」なのだけれど、この流れで考えると、以下に記す歌詞が、「誰かの願いが叶うころ」に呼応しているように、個人的には思えてならない。


「この世界で流れ落ちる涙の総量決ってるなら みんなで分かち合おうか」
(AKB48「僕たちは戦わない」、2015年)


「誰かの願いが叶うころ」で、あの子が泣いて流していた涙を、「みんなで分かち合おうか」というのは、政治的に見て、社会的包摂や公共性の共有を意味するようにも思える。

だからこそ

「僕たちは戦わない 明日を信じてる
絶望の雲の下 切れ間に青空 探せ!」

となるのだろう。決して安易に戦うのではなく、絶望せず根気強く公共性を作り上げることこそ大切なのだから。

私は「僕たちは戦わない」が好きなんだけど、昨年流行っていた時に流布されていた「これは反戦歌だ」という風潮(主に左派陣営から)には、違和感を感じていた。正直言って、「単純で平板で陳腐な解釈だ」と個人的には思っていた。

「この曲は、ただ『戦わない』ことを歌っているのではなく、『いがみ合っていた相手との分かち合い』まで描いているからこそ、昨年の自分の心に響いたんだなぁ…」と先ほど道を歩きながら、ここまでの文章や発想が、急に頭の中に降りてきたので、急いで書き留めた次第。

要は「僕たちは戦わない」って、秋元康による、11年の時を経た、宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」への返歌なんじゃないのかな?ということが言いたいのでした。

野党と、その支持者層に求められる覚悟

サッチャー&メージャー 保守党政権(1979~1997年)下の英労働党のように、苦節20年くらい耐え得る、(政権を担い得る)野党が日本にも必要だと思う。

政党は、与党でいる時は現実への対応に追われて、政策や組織の再編成はなかなか難しいもの。野党でいる時にこそ、そうしたリノベーションが可能だと思う。

イギリスの野党が「女王陛下の野党」と呼ばれるように、立憲政治には健全な野党勢力が必要だし、そうした野党を存在させるのは民主主義にとって必要なコスト。

与党と野党がお互い交替可能性を(肯定的に)意識し、同じプラットフォームを共有することで、与党も野党も安心してその役割を果たし得る。

日本にも、大正~昭和初期の憲政会~立憲民政党が苦節10年近くを耐えている前例があるわけだし、冷や飯覚悟で野党であり続けることは、決して不可能ではないはず。志のある党員とそれ相応の支持者層さえ、存在するのならば。

そういう意味で、今問われているのは、野党支持者の覚悟かもしれません。

私が「社会的=ソーシャルであること」を大切に思う理由

左派も右派も感情に訴えることで支持を調達しようとするけれど、対立する相手方とも「現実の諸制約の下での、論理的な制度設計や政策論」を共有できないと、政治は良くならない。

特に「市民社会」というプラットフォームの存在が希薄な日本では、対立する他者とも何かを共有しているという意識が薄いのかもしれない。

私が「社会的=ソーシャルであること」を大切に思う理由。

ロビイストの行動原理に関する考察と、赤杉からのお願い

以前のブログ記事にも少し書いたのですが、ロビイングやロビイストについて。

ロビイング団体を含む利益団体・圧力団体とは、政治学的に「特定の集団の利益を図るべく政治活動を行う団体で、目的を実現するために政治に組織的に影響力を及ぼす」(wikipedia「利益団体」より)団体のことです。

合法的に使えるものであれば何でも使って政策実現を図るのが、本来的なロビイング団体であり、そのように行動する人がロビイストです。

「どの党派であっても、使えるものは使う」という点において、戦略的で冷徹なロビイストは、「単一争点=シングルイシュー」主義者です。そのためには「全方位外交」を怠りません。

党派的な正しさを追求する勢力から、「一つの事にさえ取り組めば、他の事はどうでも良いのか?」と問われたとしても、戦略的で冷徹なロビイストなら、表情を変えずに「YES」と答えるでしょう。

また、ロビイストは、その性格上、立法過程の各アクター(各政党や議員、関係諸団体の首脳や幹部、国なら内閣や官僚、自治体なら首長や行政職員など)間の力学や構図を読み取る技術に長けることが求められます。

こうした傾向は、個人やコミュニティの「想い」「実存」に立脚しているアクティヴィストや研究者などから、反発を持たれやすいのが現状です。

何を言いたいかといえば、「党派的な勢力から『節操がない』と叩かれ、コミュニティ系アクティヴィストや研究者から『技術や戦略偏重』と叩かれるロビイスト。もし冷徹になりきれず、個人的な政治的良心を捨てきれないのならば、正直言ってこれほど割に合わないものはない」ということです。

以前、Facebookやtwitterでは書いたのですが、市民には市民の、コミュニティに根を張ったアクティヴィストにはアクティヴィストの、ロビイストにはロビイストの、そして政治家には政治家の、各々の行動原理があります。どれが良い/悪いという話ではなく、持ち場というかそれぞれ役割が違うだけなのだと思います。

自分は、自治体議員のパートナーであり、SOGI政策関連でロビイングもちょっとしているということで、行動原理もロビイストや議員サイド寄りになっているのは、自覚しています。

恐らく、今の私=赤杉に対してイラッとした感覚を持っている「党派的な正しさを追求する方々」「LGBTコミュニティ系アクティヴィストや研究者の方々」はそこそこいると思います。でも、行動原理がそもそも異なっているわけです。

率直に言います。SOGI政策に関して、私に対して「党派的な正しさ論」や「アクティヴィスト的な熱さやプライド論」は、当面の間、期待しないでください(そもそも期待されてない可能性も高いですが)。

政治について考え方の近い方とは、個人的に党派的なお話などをすることもあるかと思いますが、しばらくはロビイスト的な観点で動いたり考えたりしてみようと思います。

それでも、コミュニティに育てられた人間として、コミュニティに根を張ったアクティヴィストさんを尊敬しています。いがみ合わずに、お互いに上手く役割分担ができれば良いなと思っています。

「受益に見合う負担」と「民主主義に要するコスト」~「社会」なき日本政治に関する一考察

「高福祉には高負担(と、それ相応の健全財政)が必要」という意識の下、公約として増税を国政選挙で掲げようとした故 大平正芳さんや菅直人さん(大平さん:1979年総選挙、菅さん:2010年参院選)。そんな彼らが党内事情により、増税の公約化を断念せざるを得なくなる日本政治は、悲しい。

宏池会の領袖だった大平さんと、社会民主連合出身の菅さん。穏健保守や(欧州的な)社民主義には、「ある程度充実した福祉には、それ相応の負担が必要」という原則があり、二人ともそれに忠実であろうとしたのだと思う。二人とも蔵相・財務相経験があるのも、興味深い。

政治において、「打ち出の小槌」なんて結局のところないのだから、受益にはそれ相応の負担が必須なわけだけど。日本では保守主義を標榜する政党も、社会民主主義を自称する政党も、進歩主義に立脚しているであろう政党も、選挙時に決してそこに触れようとはしない。

国会議員の定数について、削減しろという声は多数だが、「巨大な行政をチェックする立法府」という観点から、定数を維持すべきという声はほとんど聞こえてこない。国民性という言葉で片付けるのは嫌いだけど、「民主主義にかかるコストを払いたがらない」のは国民性なのかと思ってしまう。

「(政治の場でも、市民同士の場でも)立場の違う人とも社会を構成し、プラットフォームを共有し、公共性をともに作り上げている」感覚が有権者・政党ともに薄いから、「福祉に見合った負担」「民主主義に要するコスト負担」の議論が深まらないのかなと思う。

高度成長期からの転換期にあたって保守政治の質的転換を図ろうとしたであろう大平さん(同日選最中での急逝が悔やまれます)と、ある意味で欧州的な社民主義者たろうとした菅さん。もう少し再検証というか再評価がされても良い気がします(菅さんはまだ現役ですが)。

日本において、欧州的な社民主義の担い手の第一は、社会民主連合。その次が(あくまで擬似的にではあるけれど)90年代くらいまでの宏池会…と個人的には思う。ここに社会党や社会民主党が出てこないのが、日本政治における中道左派不毛の一つの要因だと思う。

なにはともあれ、福祉や受益に見合う負担を提示しない政党や候補者は、信用しないことにしている私です。

余談:社会民主連合は、結成から解党に至るまで、所属国会議員数が常に一桁の政党。それだけの小規模でありながら、出身者の菅直人さんが内閣総理大臣(内閣)、江田五月さんが参議院議長(国会)と、三権の長のうちの二権につき長を務めたという意味で、かなり異色の政党だったりします。

自治体におけるLGBT政策・施策の展開について

(前エントリー「地方自治と私」との連作です)

先週木曜の10/29の夜、中野区内でとあるシンポジウムが開かれました。

私の友人・知人が運営に携わっている中野区内のLGBT当事者団体「中野LGBTネットワークにじいろ」と中野区によって共催された「すべての人々が暮らしやすい中野区をめざして」です。

当日はまず、永野靖弁護士が基調講演を行ないました。引き続き、田中大輔中野区長、田辺裕子教育長、山田正興医師、大江千束LOUD代表、永野靖弁護士によるパネルディスカッションが行なわれました(司会:山縣真矢 東京レインボープライド共同代表)。

シンポジウムの中で田中区長は、

「区民や職員が理解する機会を増やし、偏見を排して多様性を認め合える社会を作っていくために努力したい」
「ユニバーサルデザイン型の社会を目指す」

との発言を行ないました。田中区長が言う「ユニバーサルデザイン型の社会」は、「多様性(ダイバーシティ)を尊重する社会」にも言い換えられると思います。

私は普段から中野区議会をよく傍聴します。それで、住み替え支援事業やDV被害者支援などにおいて同性カップルを対象とする旨、田中区長や担当者が答弁しているのを実際に現場で耳にしています。

なので、今回のシンポジウムにおける田中区長の発言も、非常に「らしい」発言だなと思いました。良い意味でリップサービスをせずに、実効性のある個別的施策を目指すという点について、個人的には非常に好感を持っています。

なお、「個別的施策の中で対象に含める」という方向性は、かつて男女の事実婚カップルが取った戦略と共通するものがあります。その意味で、中野区におけるLGBT政策・施策は「事実婚アプローチ」と言えるかもしれません。

さて、日本国憲法第92条には、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」という規定があります。ここで言う地方自治の本旨とは、

(1)住民自治-住民自らが地域のことを考え、自らの手で治めること。つまり、地方自治は、その地域社会の住民の意思によって行われるべきこと。

(2)団体自治-地域のことは地方自治体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けることなく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていくこと。つまり、地方自治は国(中央政府)から独立した地域社会自らの団体(組織・機関)によって行われるべきということ。

の2つを指すと言われています。

つまり、自治体が自らの権能の範囲内で、国からの干渉を受けることなく、住民による意思決定に基づいて政策・施策や行政の在り方を決められるのが地方自治なのです。

となると、政策課題について、各自治体によって異なるアプローチが存在することになります。例えば同性カップルの保障という課題について見ると、

・渋谷区:条例を区議会で通し、その条例にに基づき、当事者が区へ申請を行ない、区がパートナーシップ証明書を発行

・世田谷区:首長の権限で策定される要綱に基づき、当事者が区へ宣誓を行ない、区が宣誓受領証を発行

・中野区:個別分野の政策・施策の対象に同性カップルを含み込ませる(事実婚アプローチ)

と三者三様です。

その自治体を取り巻く事情や状況に応じて(そして最終的には住民の判断に基づき)、政策・施策が各自治体で行われれば良いわけです。そこに優劣は存在しません。

もし、各基礎自治体(いわゆる区市町村)での取り組みに差異があることで不都合が生じるならば、その時は広域自治体(いわゆる都道府県ですね)や国へ、条例や法律・通達等の改正や新たな立法を働きかければ良いのです。

さて、最後にLGBT関連の政策・施策に関して、自治体における行政や議会へのロビイング、若しくは行政との協働を考えているみなさんへ。

以下のような要素を複合して分析した上で、どのような手法をとるべきか判断することをオススメします。行政や議会の状況に応じて柔軟に対応することが、ロビイングや協働では大切です。

・首長(基礎自治体では区市町村長)の意識やヤル気の有無

・議会における会派構成(分かりやすく言えば、「どの会派が○議席持っている」とか、「どの会派がキャスティングボートを握っているか」など)

・意識やヤル気のある行政職員の有無

・上記のような、意欲的な行政職員を後押しできるような議員の有無。こうした議員にロビイングすることも重要です。
(言い換えれば、「行政に対して何でも反対」な議員は、職員の問題意識やヤル気を削ぐ可能性があるという事です^^;)。

市民側がこうした分析を行なった上で、それぞれ特質が違う行政と協働する事ができるならば、有意義な政策・施策展開が実現されるのではないか…と個人的には思っています。

地方自治と私


北大法学部で政治学履修コース~修士課程所属だった90年代後半~00年、北海道地方自治土曜講座(法学部の大きい8番教室で開かれていた)という、市民にも開かれた地方自治講座を任意で(=個人的に楽しみにして^^;)受けていました。

http://sky.geocities.jp/utopia2036/doyokoza/

私が、土曜講座を受けていたのは、96年頃~00年で、その頃のプログラムは、以下のリンク先のような感じ。

http://sky.geocities.jp/utopia2036/doyokoza/1995-2001.html

今振り返ると(というか、振り返らずとも当時から既に)、錚々たるメンバーの講義を受けていたんだなぁ、とちょっとした感慨。

今年お亡くなりになった松下圭一先生や、つい先日お亡くなりになったばかりの篠原一先生の講義も、そういえばここで受けていたのです。

修士課程時代(99~01年)は、北海道町村会から派遣されているニセコ町(=現民主党代議士の逢坂誠二さんが若手町長だった)の職員さんが同期にいました。さらに同じ研究室に自治体職員志望の同期がいたりと、地方自治について話す事が非常に多い環境でした。

また、修士課程時代、木佐茂雄教授(現 九州大学法学部教授) の講義を取っていた時には、「札幌地方自治法研究会」へ参加しました。その流れで、99年7月には島根県大田市で開かれた、自治体法務合同研究会に同期達と一緒に参加しました。

http://jititaihoumupark.web.fc2.com/04-03.htm#04-03top


そうした環境に身を置く傍ら、私は、キャンパス近くにあった「北海道内のNPOをネットワーキング&サポートするNPO」の事務所によく出入りをしていました。また、某政党の北海道議さんと市民による政策勉強会にもメンバーとして参加していました。

こうした流れの中で、現 朝霞市議 くろかわしげるさんや、(田口晃先生のゼミ同期でもある)現 札幌市議 かんの太一くんとも知り合いました。

私が各種NPOに携わっていた1990年代後半、NPO界隈でキーワードとなっていた言葉は「協働」です。

「協働」とは、それまでとにかく対立的な立場にあった行政(主に基礎自治体)と市民が各々の特性を活かし、共通の政策や施策目的に対して活動することで、今までにないものを創り上げていくことです。

21世紀に入ってからの10年間は、性的マイノリティの活動(執筆やパレード運営、同性パートナーシップの問題)に注力するようになりました。

が、2011年、連れ合いが自治体議員になってからは、地方自治に関して今までの経験や学んできたことを活かせるようになってきました。

それと同時に、「基礎自治体におけるLGBT政策・施策を、市民と行政との協働により進めていくこと」について深く考えるようになってきました。

…というわけで、私のブログにしては珍しく、連作もののエントリーです。詳しくは次回へ続きます!

超党派的活動と党派的活動の分化が必要

  2つ前のブログ・エントリー「LGBT政策の実現に向け、どこまで透徹して戦略的・現実的であるべきか?」の続編です。

 「LGBT政策の実現に向け、どこまで透徹して戦略的・現実的であるべきか?」では、

(1)合法的に使えるものであれば何でも使って、政策実現を図るのが、本来的なロビイング団体。仮に、LGBT政策を現実的に進めたいと考えている、戦略的で透徹しているロビイストであれば、「LGBTの事にさえ取り組めば、他の事はどうでも良いのか?」と問われたとしても、迷わず即座に「Yes」と答えるであろう。

(2)LGBTが社会的な認知を得ていくということは、かつてのような「LGBT政策=進歩主義的・左派的」という専売特許的な構図が崩れ、(その人の内心や本心はどうであれ)各党派でLGBT政策の必要性を唱える議員が増える事を意味する。

(3)そうした時に、どこまで透徹して戦略的・現実的であるべきなのか?この点は、ロビイストや圧力団体以外のLGBT当事者や支援者にとっては悩ましい問題になってくると思われる。

という点について触れました。

 (1)で触れた通り、ロビイ活動を通じて、LGBT関連の政策・施策を現実的に実現したいと考えるならば、「LGBTの事にさえ取り組めば、他の事はさておく」という切り分け(というか冷徹な割り切り)が必要になってくるのだと思います。

 さらに(2)で触れたように、今後は、各党派でLGBT政策・施策の必要性を唱える政治家が増えることが予想されます。そうした状況において、ロビイストや活動家が影響を及ぼそうとするためには、多様な関係者=各党派の政治家への働きかけ、いわゆる「全方位外交」が必要となってくるからです。

 さて、欧米各国では、「全方位外交」を行なうLGBTロビイング団体の他に、「各政党の党員による、党内当事者・支援者グループ」「各政党の支持・支援団体や圧力団体メンバーによる、団体内当事者・支援者グループ」というものがあります。それらのグループは、自分たちが所属する/支援する政党や団体内部に働きかけ、LGBT政策・施策の推進を目指しています。

 例を挙げて言うと、アメリカ合衆国の共和党には、LGBT当事者・支援者の党員によるグループ「ログ・キャビン・リパブリカン(Log Cabin Republicans)」 http://www.logcabin.org/ が存在し、共和党がLGBT施策を推進するよう、共和党内部での働きかけを行なっています。

 翻って日本では、「LGBT政策・施策の実現に向け、超党派的にロビイング活動を行なうLGBT活動家・専門家や団体」「自らの党派性を明示した上で、党派的な活動の一環として、LGBT政策・施策の必要性を訴える活動家・専門家や団体」が、今まではやや未分化な状態であったかと思います。

 正確に言えば、「党派性を帯びた(=これ自体は悪くないし、生きている以上、党派的であること自体は当然なのですが)活動家・専門家や団体が、『LGBT(全体の利益)のために』と謳いつつ活動しているケース」が多かったという印象を個人的には持っています。率直に言えば、「あなた、それはLGBTコミュニティの一員として発言してるの?それとも、××党の党員・支持者として発言してるの?」と確認したくなる場面が、これまで何度も見受けられました。

 今後、LGBT政策・施策実現を目指す活動に厚みを持たせる上でも、「LGBT政策・施策の実現に向け、超党派的にロビイング活動を行なうLGBT活動家や団体」「自らの党派性を明示した上で、党派的な活動の一環として、LGBT政策・施策の必要性を訴える活動家や団体」が分化していくことが、個人的には望ましいと考えています。

 そうすることで、結果的に、超党派的なロビイストが透徹して動きやすくなるのではないかなぁと思います。

社会契約を結び直すのは、今。

8月後半から9月にかけて、連れ合い氏と家で夕食を取りながら、ある話題を繰り返していた。

「日本で『フランス人権宣言』のような人権宣言って、国会で採択できないものかね?」と。

現在のフランス第五共和政憲法は、ド・ゴールによってフランス第四共和政が打倒された後に作られた憲法であり、大統領の執行権が強化されているなど、強力な行政が特徴的。

が、前文を見ると「前文において「1946年憲法(=第四共和政憲法)で確認され補充された1789年宣言(=フランス人権宣言)によって定められたような、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する」とされており、フランス人権宣言の精神と規定をベースにする事が明記されている。

アメリカは、合衆国憲法を制定する前のアメリカ独立戦争(革命戦争とも)中に、基本的人権や革命権(=抵抗権)などについて規定する「アメリカ独立宣言」を発している。

イギリスは不文憲法の国だけれど、古くは「マグナカルタ」、そして名誉革命を経て発布された「権利の章典」などが、不成典憲法の重要な構成要素となっている。

上記の国の中でも、特に成文憲法の形態を取るアメリカやフランスでは、過去に憲法改正や条文修正、新憲法の制定が行われてきた。しかし、その場合も、「フランス人権宣言」や「アメリカ独立宣言」の趣旨を否定するような憲法改正や修正などは行なわれなかった。


翻って、日本。ここ半年ほど振り返るだけでも「個人主義=利己主義」「国民主権というのが間違っている」「天賦人権説という考え方を取らない」と言った、日本国憲法の精神を否定するような発言が、(残念ながら与党第一党の)国会議員によってなされている。

何故、憲法の精神を否定するような発言が、国会議員によって簡単になされるのか?連れ合い氏と話し合った結果、「『フランス人権宣言』や『アメリカ独立宣言』のような、市民革命の末に発せられた人権宣言がないからではないか?」という結論になった。

アメリカやイギリス、そしてフランスの為政者達が、「基本的人権」「国民主権」、そして「立憲主義」を踏みにじる憲法改正や立法を行わない理由。それは、憲法的価値が、人権宣言(や、その引き金となった市民革命)に裏打ちされたものであることを理解しているからではないか。

もちろん、日本国憲法の成立過程は、憲法の内容や価値を損なうものではないし、2015年の現在、武力を以って市民革命を起こせと言うつもりも毛頭ない(付言すると、法学部出身である自分は、「八月革命説」という学説も一応知っている)。


明治時代の自由民権運動は、市民革命たり得たかもしれない動きであり、同時代としてはかなり先進的な「五日市憲法草案」などの私擬憲法も作られている。

*ちなみに余談になるが、「五日市憲法草案」については、皇后陛下が、2013年の誕生日に宮内記者会からの質問回答文書でしっかりと触れている。こういう点を見ると、現天皇・皇后両陛下は、つくづく憲法の遵守者だなぁと思う。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h25sk.html

しかし、残念ながら、近代と呼ばれる時代に、日本で市民革命が完遂されることはなかったし、人権宣言的なものが国会や制憲議会などで発せられることはなかった。

自由民権運動が完遂されなかった要素の一つ。それは幸か不幸か、当時の為政者のトップ(後に元老になるメンバー達)が立憲君主制の精神を相当程度理解しており、歴代の天皇も、決して立憲君主制の矩を越えた絶対君主たろうとはしなかった事だろうと、私は思っている。


それでは、どのようにすれば、武力によらない21世紀的な「自由民権運動」を完遂させる事ができるのだろうか?

それには、(本来は市民革命によって行なわれると擬制される)「社会契約」を新たに結び直す必要があるのだと思う。そして、「社会契約」を新たに結び直す具体的な方法とは、憲法的価値を守り、さらにバージョンアップさせるための憲法議論と改正作業を厭わずに行なう事なのだろうと思う。

例えば、私が同性間の婚姻を巡って、憲法24条の改正を強く主張するのも、この観点によるところが大きい。

法律改正で、婚姻に関する法技術的な問題はクリアできるかもしれない。しかし、憲法を改正した方が、婚姻やセクシュアリティ/ジェンダーの平等などを巡る社会契約の結び直しに資するのではないだろうか?この辺り、法律学的というより、明らかに政治学的な発想なのだろうとは、自覚している。

戦後、日本では「憲法的価値を守る=護憲」という構図が長年続いてきた。しかし、左派・中道左派・中道・中道右派・右派と、立場や党派の違う人々が各々の案を持ち寄って、憲法的価値を守りつつアップデートさせるための議論と改正作業をする(=社会契約を結び直す)時期に来ているのではないだろうか。

「社会契約を結び直すのは、今だ」と声を大にして言いたい。

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プロフィール

赤杉康伸

Author:赤杉康伸
赤杉康伸(通称:NOV)

1975年5月、札幌市生まれ。2001年3月下旬から東京在住。2001年3月、北海道大学大学院 法学研究科修士課程(専修、公共政策コース)を修了。

札幌・東京における性的マイノリティ中心のパレード運営に参画。その間、2004年7月には、共編著で「同性パートナー -同性婚・DP法を知るために-」(社会批評社)を出版。

現在、東京メトロポリタン ゲイフォーラム 共同代表。NPO法人 共生社会をつくるセクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワーク 理事。特別配偶者法全国ネットワーク メンバー。

当面は、近況報告や政治関連の記事をアップ予定です。「複雑な現実に向き合いながら折り合いをつけ、相手に『敵方』のレッテル貼りをせず、まずは対話を重視する政治」「多様な人々の、多様な利害を調整する政治」がモットー。

Twitterはこちら。メールはy.akasugi@gmail.com まで

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